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愛媛新聞ONLINE

2020
813日()

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 愛媛新聞は2019年7月26日付の特集で、1945(昭和20)年にあった一連の松山空襲の中で最も被害の大きかった松山大空襲(7月26日深夜~27日未明)を中心に、東京大大学院の渡漫英徳教授に依頼してのモノクロ写真のカラー化や被害実態の解明などに取り組んだ。空襲の恐怖や当時の人々の生活をより視覚的に受け止めてもらいながら、被害の全体像を浮き彫りにする試みだ。
 県史(88年)によると、松山市への空襲は45年2~8月に計21日あったとされているが、米軍資料と合致しない部分もあり、全容は不明。死者数も378人、385人、411人など複数の異なる記録があり、はっきりしない。
 2020年は戦後75年。今回の特集では愛媛川柳界の礎を築き、野球拳の創始者として知られる前田伍健(1889〜1960年)自筆の「戦災画記」「松山市戦災絵巻」などをひもとき、伍健が子孫らに伝えようとした空襲に迫る。

更新情報
  • 2020/07/27前田伍健関連情報を追加しました。
    被害地図を更新しました。

 松山空襲 県史(1988年)には、松山市への空襲は45年2~8月に計21日あったと記されているが、全容は不明。死者数も複数の異なる記録があり、はっきりしない。旧市誌(62年)や市戦災復興誌(69年)には、松山大空襲と呼ばれる7月26日深夜~27日未明の市街地への焼夷弾攻撃で251人が亡くなったとあるほか、県史には市事務報告書(45年)を基にした45年中の死亡者385人を併記。愛媛県分の戦時中空襲被害状況報告(45年10月1日付)では、当時の松山市の死者数(船舶被害を除く)を378人としている。56年建立の太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔(兵庫県姫路市)には、411人と刻まれている。

 焼夷(しょうい)弾 ゼリー状の粗製ガソリンなどを詰めた爆弾。攻撃対象を爆風や飛散する破片で破壊する通常の爆弾と異なり、焼き払うために使う。約900~1300度の高温で燃焼。「米軍資料から読み解く愛媛の空襲」(2005年発行)などによると、米軍のB29爆撃機約130機が松山大空襲で大型のAN―M47A2(直径約20センチ、長さ約120センチ、重さ約45キロ)や、小型のM69(直径約8センチ、長さ約50センチ、重さ約3キロ)38個が空中で散開する「E46」など計約813トンを市街地に投下した。

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