
墓マイラーの世界へGO!! 前編・カジポンさんが魅力を語る
自分の人生に影響を与えてくれた偉人らの墓を、感謝の気持ちを込めて巡礼する人を「墓マイラー」と呼ぶそうだ。確かにお墓は故人の存在を肌身に感じるスポット。そこからいったい何が見えてくるのだろう? 素朴な好奇心に突き動かされ、「墓マイラー」の生みの親で文芸研究家のカジポン・マルコ・残月さん(54)=大阪府在住=に話を聞いた。墓参りの魅力は? どんな気持ちになる? 思うままに疑問をぶつけると、30年余りをかけ世界101カ国・地域2520人以上のお墓を巡った大ベテランの口から、悲喜こもごものエピソードが次から次へと出てきた。
偉人と同じ名前のお墓に戸惑ったり、すぐ近くにお墓がある2人の作家双方に気を使ってお供えものを選んだり、故人の思いを感じたり…。いやあ、墓マイラーの世界は奥深い。(松本尚也)
■スタートはロシアの文豪

作家ドストエフスキーの墓=ロシア・サンクトペテルブルク(カジポンさん提供)
墓マイラーに目覚めたきっかけは何でしたか。 青春時代からさまざまなジャンルの文学や音楽にのめり込んでいました。1987年の19歳の夏。10代が終わるのに当たり、青春時代を支えてくれた恩人にお礼を言いに行こうと思い立ち、ロシア・サンクトペテルブルクに眠る小説家ドストエフスキーの墓参を考えました。
「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」などたくさんの作品が残っていますが、一貫して伝わってくるのは作者の尋常ではない優しさでした。人間の残酷さや弱さを前面に出す作風でしたが「それでもなお、人類を信じていたい」という叫びが伝わり、多感な10代の私に圧倒的な感動を与えてくれました。
墓前でロシア語のありがとう「スパシーバ」を言いたい。しかし、当時、ロシアはソビエト連邦で冷戦中。個人旅行が難しく、お墓に一番近いホテルに泊まるツアーを探しました。夕食前の一瞬の隙に、墓地に走って向かいました。そして、墓石に触れ、この手の下に眠っているんだと、ドストエフスキーの存在を強烈に感じました。素晴らしい作品の言葉の数々に血が通った感覚でした。「本当にいたんだ」と実感し、感動で鳥肌が立って、経験したことのない芸術の雷「アートサンダー」が体を走りました。
「あなたがいたおかげで、私は人間を信じられる」。涙を流し、墓の後方に目を向けました。すると、そこにはチャイコフスキーの墓が。ほかにもムソルグスキーやグリンカら、そうそうたる作曲家の墓が並んでいました。もう「スパシーバ」の連続です。
生き方に影響を与えてくれた恩人たちに直接お礼を言えたことで人生が一歩前に進んだ気持ちでした。そして思いました。「ゴッホや、ベートーベン、日本人なのに夏目漱石や芥川龍之介にも、まだお礼を言ってないぞ」と。どんどん行かねばならない墓が増え続けました。
■「同じ名前」に「参った」

アンネ・フランクの墓=ドイツ北部ベルゲン・ベルゼン強制収容所(カジポンさん提供)
墓マイラーという造語をなぜ考えたのですか。 江戸時代から、お墓を巡る人を、お墓についたコケを掃除する人という意味で掃苔(そうたい)家と呼んでいました。地味な言葉にならず、若い世代に親しみをもってもらおうと造語で「墓マイラー」と発信しました。電子版の辞典などにも掲載され始めました。
インターネットが浸透していない時代の墓マイラーは大変だったのではないですか。 伝記を読んでも墓地の正確な場所が載っていることはまれです。場所が分からない時は、最後に暮らした土地の警察署に行きました。著名人の葬儀は参列者が多く、その警備で現場にいた警官は、どの墓地にひつぎが向かったか知っているケースがあったからです。また、首都の一番大きな観光案内所に行き、聞くこともあります。故人ゆかりの記念館や生家で聞き込みをすることもあります。
ただ、ようやく墓地の場所が分かっても、1日数本しかバスがないことも。墓地の管理人事務所が定休日や無人の時は、何万人も眠る墓地をひたすら歩き回らなければなりません。欧米では親子の名前が一緒の場合もあり、ややこしさは増します。三銃士の作者と、椿姫の作者は親子で、同じ「アレクサンドル・デュマ」といいます。親戚も同姓同名といったこともあるので、墓石に刻まれた生没年の確認は絶対必要です。
別人の墓と後々分かって、ショックを受けることもありました・・・
難航することもあったお墓の巡礼。それでも続けたカジポンさんが皆さんに伝えたいこととは