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気丈に闘病 最後まで長女の幸せ願い続け

体調を急激に崩す前の最後の夏、長女と一緒に関西地域にある水族館へ遊びに。仲睦まじい様子が伝わってくる(2019年10月)

 2020年春、松山市でがん闘病中だった女性が長女を残し旅立った。長女が小学校の卒業式を終えた2日後、まだ39歳だった。2人暮らしで穏やかだった女性の生活は、副鼻腔(びくう)の希少がんが分かり一変した。見通しが立たない治療や体調、経済的な不安、娘の将来。約10年間、パートで勤務した会社を退職し、さまざまな悩みを抱えながら治療に向き合う日々に、取材のたびに「どうしたらいいか、誰か教えてほしい。娘と一緒に、まだまだ生きたい」と訴えていた。ただ、困難の中でも明るく活発で、周囲を気遣いながらも意志を貫く人柄を失わなかった。亡くなったあと、家族が医療スタッフを訪ねると「明るく、いい意味で甘えない。がんこやったね」と口をそろえて言われたという。女性は「私がいなくなっても、娘に力を貸してくれるだろう家族や知人たちがいる。こんな腹立たしい病気になっても、私は救われている」と、感謝も忘れなかった。

休職1カ月のみ 格差を実感

 女性の体調に変化があったのは15年ごろ。聴力の低下を感じた。耳鼻科では突発性難聴や蓄膿(ちくのう)と診断された。だがその後も鼻血や眼球の突出など異変が続いたため、18年春に総合病院を受診、手術・検査の結果、ステージ4の副鼻腔(びくう)がんが発覚した。紹介された県外の大学病院で「左目を諦めるなら手術できる」と言われ、死を強く意識した。「精神的に、自分を保てるだろうか。娘をどうしよう」と思い詰めた。

 女性は全国展開する商社の地方営業所で事務職のパート社員だった。パートの休職は1カ月と規定されており、手術に伴う入院が判明した時点で退職せざるを得なかった。女性は社内の試験に合格し秋から有期契約社員となる予定だった。有期契約社員になれば1年の休職が認められ、復職を検討することもできた。「長年、営業事務の中核を担っていてもこんなものか」と正社員との格差を感じた。「『がんが分かっても、すぐに仕事を辞めないで』といわれる社会だが、辞めざるを得なかった。病気になった途端、パートや自営業は生活や収入の先行きが立たなくなる」と苦境を吐露。ただ、営業所の所長は回復した時の優先的な復帰や、退職金の上乗せを上司に掛け合ってくれ「生命保険金が入る前に入院費などを工面できた」と厚意に感謝していた。

 

長女が幼いころ、一緒に行った海外旅行のお土産に購入したぬいぐるみ。女性にとっても大切な思い出の品だ

 

肺への転移が判明 長女に告白

 18年6月、県外大学病院での腫瘍切除手術は眼球の摘出をせずに成功し、放射線治療を経て自宅療養になった。少しずつ体調が上向き、春から仕事を始めることを考え始めた19年2月、肺への転移が発覚。すでに大小10個あまりの腫瘍ができていた。医師からは手術や放射線治療ができないこと、抗がん剤治療をするが効果がない可能性が高く、余命は1年と告げられた。

 抗がん剤治療では体調不良や脱毛などの副作用が想定されるため、転移が分かって初めて長女にがんを告白、「治ることはないけれど、治療頑張るからね」と伝えた。女性が入院している間は、近所の友人一家や姉妹が長女を預かってくれた。長女は気丈で寂しいそぶりを見せず、2人でいても病気を話題にすることはほとんどなかったという。

体調悪化 治療法が見つからず

 転移発覚後は効果が期待できる抗がん剤治療を探すことになったが、希少がんのため、医師ですら情報が少なく病状の見通しが立たない状況が続いた。抗がん剤を2種類試したが、効果がなく中止、新たに余命半年と告げられた。19年10月から、わずかな望みを懸けてがんゲノム医療の「がん遺伝子パネル検査」(※1)を受けて治療法を探したが、見つからなかった。

 20年に入りしばらくして、体調が悪化。体を動かしたり話したりすると、せき込み、家で横になり過ごすことが増えた。顔面まひなども現れた。受診以外は訪問看護を受けながら家で過ごし、家事は家族や知人に助けてもらった。3月中旬、姉と同居するために引っ越した後、さらに病状が悪化しコミュニケーションを取ることが困難になっていった。ただ、家族に見守られながら、長女と一緒に最期まで自宅で過ごすことができた。

「支援の隙間 運悪く落ちてしまった」

 女性が特に悩んでいたのは経済的な不安、そして長女の将来だ。「制度や支援の隙間に落ちてしまった」と感じることが多かった。退職後1年半は傷病手当金を受けたが、その後は無収入に。病院のソーシャルワーカーや市の窓口に相談しても「将来、もっと体調が悪化したら障害年金をもらえるかもしれないが、今は使える制度がない」と言われた。「貯金はあったが、それは娘の学費。せめて娘には『お金の心配はせんでいいからね』と言ってあげたいのに」と表情を曇らせた。傷病手当金が切れたあとは、生命保険金を受け取り生活費に充てたが、最後までお金に関する不安は消えなかった。

 40歳未満のため介護保険制度が使えず、在宅介護での公的支援がない(※2)ことも「誕生日まであと数カ月の差なのに」と運の悪さを感じた。幸い、訪問看護師らのサポートで、車いすの貸し出しや買い物支援に関する情報を得ることはできた。

 

治療や気持ちの経過を記したメモを見る女性。取材の際には、いつも記録を用意するなど、記者への心配りも忘れなかった(2019年9月)

「死」について 家族や長女と話せぬまま

 女性に万一のことがあれば、姉が長女を引き取ることを了承してくれていたが、例えば養子縁組をするのかなど、具体的には方向性を出せないままだった。家族からも、遺書などについては女性に言い出せなかった。余命の話や自分の死についても、周囲は長女と話すように女性に勧めたが、できないままだった。「娘の中学入学準備をしたい。自分がいなくなった後、早く状況に溶け込めるよう道筋を示しておきたい」と願いながらも、「自分の最期をどうすればよいか、娘にはどう向き合ったらいいのだろうか。養子縁組の手続きについては、誰に相談すればいいのだろう」と次々に浮かぶ疑問に答えを出せないまま、体が動かなくなっていった。具体的に相談相手になるような、若くしてがんになった経験を持つ人は身近にいなかった。ただ、自分で調べて支援や治療につなげる努力は惜しまず、看護師らが来るたびに「この治療法は?」「支援は?」と質問をぶつけていたという。インターネットでつながるがん患者の親の会にも参加し、交流を続けていた。

「いつもママは必ず横にいるからね」

 「一人親家庭だから、(こうした事態に備えて)例えば正社員になれるよう、もっと努力をするべきだった」と自分を責めることもあった。かろうじて心に折り合いが付けられたのは「この病気にかかるのが娘じゃなくて良かった」という思いがあったから。それでも、治療法が見つからず精神的に苦しくなり、うつ病のような状態になった時もあったが、心療内科に行ったり、医療スタッフらに話したりして、何とかやり過ごした。家族も「娘のためになんとか前を向き、治療法を探していた」と振り返る。

 中学入学を目前に控えたころから、長女が病気や治療について話すようになり、理解が進んでいると感じることが増えた。「成長を実感するけれど、申し訳なさと悔しさがこみ上げてくる。まだまだ甘えさせて、絶対の味方だからね、と伝えたかった」と唇をかんだ。長女の幸せを願い続け、最後となった2月末の取材で「いつもママは必ず横にいるから、成人して子育てをして人生を楽しんで、たくさんの思い出話を作ってね。もう十分!となった時に、ママに話してね」と、長女へのメッセージを残した。

(2019年8月~2020年2月取材 3月ご逝去 遺族に6月取材)

 

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