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水俣病、癒えぬ悲しみ

水銀規制条約1年 松山の越智さん、亡き妻の苦悩思う

2018年8月17日(金)(愛媛新聞)

水俣病の認定証明書と診察券を見ながら、妙子さんに思いをはせる越智勇二さん=10日、松山市

水俣病の認定証明書と診察券を見ながら、妙子さんに思いをはせる越智勇二さん=10日、松山市

愛媛で生活していた頃の妙子さん。歌うのが大好きだった=1994年、新居浜市(越智勇二さん提供)

愛媛で生活していた頃の妙子さん。歌うのが大好きだった=1994年、新居浜市(越智勇二さん提供)

妙子さんが生前使っていた病院診察券。右上に「公害」と手書きされている(画像の一部を加工しています)

妙子さんが生前使っていた病院診察券。右上に「公害」と手書きされている(画像の一部を加工しています)

 水俣病を教訓に水銀規制の国際的なルールを定めた「水銀に関する水俣条約」が発効して、16日で1年を迎えた。水俣病患者の支援活動に取り組んできた元中学校教員の越智勇二さん(66)=松山市南江戸5丁目=は、活動を通じて患者だった妻・妙子さん(熊本県水俣市出身)と知り合い、2003年に64歳で死去するまで見守り続けた。条約を「大きな一歩だ」と評価しつつも、水俣病の風化や今も苦しむ人が多くいる現状に心をくだいている。

 越智さんが大事に残している妙子さんの診察券。黒のフェルトペンで手書きされた「公害」の2文字が目を引く。医療費無料の印だが、水俣病が人災による悲劇だということを思い起こさせる。

 水俣病は、化学工業メーカー「チッソ」がメチル水銀を含む排水を八代海(不知火海)に垂れ流したことに始まる。汚染された魚や貝を食べた人が次々に手の震えやけいれんを起こし、謎の「奇病」とされた。1956年に被害が公式確認され、68年に国が公害病と認定した。

 妙子さんは10代前半で発症し、さまざまな症状に苦しんだ。「妻は何をするときも発症前の記憶を頼りに生きた」。勇二さんは妙子さんとの暮らしを振り返る。

 左耳が聞こえず、目は視野狭窄(きょうさく)で、駅や店の階段を上り下りするときは、覚えた段数を頼りに歩いた。味覚も失い、においや娘の反応を手がかりに料理に励んだ。手足や舌の感覚もほとんどなく、熱いお茶やみそ汁の温度が分からず何度ものどをやけどした。体の節々が痛む。「水俣病は痛いのよ」が彼女の口癖だった。

 発作もあった。けいれんしながら全身が弓なりになり、意識を失う。男性4人がかりで必死に手足を押さえてもはね返すほどの力で、勇二さんは「骨が折れてしまうのではないか」と不安になったことを覚えている。85年、手術で卵2個大の胆石を取った。不思議と発作は治まった。胆石には水銀が大量に含まれており、現在も大阪大と熊本大に保管されているという。

 偏見や差別とも闘った。親戚の家でも「これは捨てるやつやけん」と妻だけひび割れたコップを出された。唾液などから感染するのではないかとの恐れからだった。そうしたことがあるたびに妙子さんは「水俣病は病原菌があるわけではなく、うつる病気ではないのです」と丁寧に説明した。

 知人や見知らぬ人から水俣病の補償金を目当てにお金をせがまれたこともある。「体の痛みより、差別の痛みの方がつらい」。妙子さんはそう話していた。

 妙子さんは2003年に乳がんで亡くなった。水俣病さえなければ、妻は今も元気に生きていたのではないか-。越智さんはそんな思いをぬぐいきれない。「公害」と書かれた診察券を見るたび、胸が痛む。

 条約発効で国際的な水銀規制が前進した一方で、水俣病をめぐっては現在も、国内各地で認定や損害賠償を求める訴訟が続く。母親の胎盤を通して水銀の影響を受け、生まれながらに水俣病を背負う「胎児性患者」も多くいる。

 勇二さんは「水俣病は終わっていない」と訴える。過去としっかりと向き合い、教訓を未来につないでいくこと-。それが亡き妙子さんとの共通の願いだ。

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