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県内豪雨災害 水がめ野村ダム 元町長・池田忠幸氏に聞く

<上>昭和前期 度重なる水害、治水の切り札 建設要望

2018年7月31日(火)(愛媛新聞)

野村ダム建設の歴史を振り返る池田忠幸。自宅には浸水の跡が残っていた=19日午後3時10分ごろ、西予市野村町野村

野村ダム建設の歴史を振り返る池田忠幸。自宅には浸水の跡が残っていた=19日午後3時10分ごろ、西予市野村町野村

 「山丘は滝となり、道路、市街地は河川と化し、宇和川流域は数十分にして沿岸耕地、村落、市街地は大氾濫となり」―。

 7日の西日本豪雨で、西予市野村地域の中心部をのみ込んだ肱川(宇和川)の氾濫を想起させるが「野村郷土誌」に記された1943年7月の豪雨災害の記録だ。昭和以降だけでもほかに38年7月の台風、45年9月の暴風雨が記載され、明治までさかのぼるとさらに増える。

 県内で大きな被害を出し「100年に1回の災害」ともされる43年では、浸水は地上から最大3・4メートル。浮流する家屋16戸、流出しようとする家屋に16人が取り残されたが、何とか死者は出なかったとの記述もある。

 今回の豪雨では地域中心部が浸水し5人が死亡。十数人が逃げ遅れ、屋根の上や浸水した2階で救助を待った。地元では上流にある野村ダムの放流操作や、住民への情報提供の在り方に疑問の声が上がる。ダム建設を旧野村町町長(71~79年)として推進した元県議の池田忠幸(91)を訪ねると、作業姿で自宅前に水をまいていた。周辺は約4メートル浸水し、自宅は1階が水没した。

 「ここは取り壊そうと思って。きれいに見えてもカビが生え始めている。ここらも十数軒(家などが)あるが、6~7軒は壊そうという話が出ている。ようやりませんのよ」。浸水の痕跡が残る自宅に入り階段に腰を下ろした。「私らは最善を尽くしたつもりでいるが、考えると夜もよく寝られない」。視線の力強さは健在だが、声にいつもほどの張りはない。

 池田は、泥のにおいが残る野村郷土誌を手に「43年は私は軍隊に行っていて体験していないが、38年や47年にも水害はあり、ほぼ3年おきだった」と振り返る。「おやじ(池田政太郎)が町長をしていた時代の62年ごろから水害対策でダム建設を県に要望したが、いつも却下されていた」

 旧野村町誌には、政太郎の後継として町長を63年から2期務めた松井清の回顧録がある。防災ダム建設を63年10月、県河川課に申し込んだが、多目的ダムでないと建設できないとの回答だった。対案として両岸の堤防建設を挙げられたが、水田の少ない地域で農地を減らすのは難しい。そのうち河川課長が国の本省に転勤した。

 いったん頓挫した構想だが、ダムは82年に完成。野村町では87年7月に35戸が浸水する被害があったが、戦中や終戦直後ほどの水害は起きていない。池田はダムの洪水調整能力に加え、建設に際し実施された河川改修の効果があったと考える。その半面、自身を含め地域の河川氾濫への危機意識は薄くなっていたという。

 ダムには構造的な問題も潜む。有効貯水容量は下流の鹿野川ダム2980万トンに対し1270万トン。今回の豪雨前には洪水調節容量として、通常確保する350万トンから上積みして600万トンの「空き」を確保したが、鹿野川ダムの2230万トンの3分の1弱。野村ダムは6日午後9時には貯水率69・4%だったが、集中豪雨となった7日午前4時には81・9%、5時には94・7%と急激に水位が上昇した。

 治水の切り札として町関係者が待望したが同時に、西予、宇和島、八幡浜、伊方の4市町に水道やかんがい用水を供給。南予の水がめになぞらえられる。「元々小さいダムで洪水調整能力は低い。ミカンのため夏場に水が必要で、思い切って放流して洪水に備える性格ではない。宿命を背負ったダムなんですのよ」

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