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聖地を沸かせた名将 えひめ高校野球 全国春90回・夏100回大会

<6>一色俊作 松山商1969年夏優勝 選手の一生背負う覚悟

2018年6月3日(日)(愛媛新聞)

三沢との死闘を制し夏の甲子園大会優勝に導いた一色俊作(右)=1969年

三沢との死闘を制し夏の甲子園大会優勝に導いた一色俊作(右)=1969年

 1969年夏の甲子園大会。伝説の名勝負とされる三沢(青森)との史上初の延長十八回引き分け再試合を制した勇将こそ、32歳の若さで松山商を指揮した一色俊作だ。

 肩で風を切り、大きな体を揺すりながら練習場に姿を現すと、一瞬でナインに緊張が走ったという。当時のあだ名は「鬼の一色」。「相手に点をやらない守りの野球こそ最大の攻撃」が口癖で、守備練習は熾烈(しれつ)を極めた。捕球できるぎりぎりのコースに雨あられとノックを打ち込み、選手たちはへとへとになるまでグラウンドを駆け回った。

 「監督が求めたのは、へたくそでも最後までこつこつと(努力)する人間だった」。主将で捕手だった大森光生(66)=広島市西区=は振り返る。苦境に負けない精神力を養わせる目的で課した猛練習の集大成が、決勝の三沢戦だった。

 4時間16分に及ぶ死闘では、延長十五、十六回に1死満塁のピンチを招いたが、いずれも鉄壁の守りでしのいだ。「(窮地を)乗り切ったときは身震いした」と大森。再試合では三沢に4―2で勝利し、16年ぶりに母校へ優勝旗を持ち帰った。

 それから21年後、一色は新田の監督として90年に同校を選抜大会初出場準優勝に導く。2回戦、準決勝と2度にわたりサヨナラ本塁打で試合を決める劇的な展開は「ミラクル新田」と称され、松山商時代とは異なるスタイルで聖地に強烈なインパクトを残した。

 年月を経て、一色の指導法も変化していた。「その時代の子に応じた野球をしなければならない」と選手とのコミュニケーションにも気を配り、練習後には自家用車で選手を連れて近くの銭湯へ。「甲子園はいいぞ」―。憧れの舞台の思い出を話して聞かせたり、寮生活を送る選手の部屋へ出向き野球の心得を説いたりすることもあった。

 教え子からの進路相談にも真摯(しんし)に応じた。新田の準優勝メンバー池田幸徳(46)=松山市三番町4丁目=は、一色野球を継承するため指導者を志す意思を伝えたところ、翻意を促された。その際、一色は「3年間だけじゃない。高校野球の指導者は、その子の一生を背負う覚悟がなければできない」と諭したという。人生を懸けて野球と選手に向き合い続けた指揮官だった。(敬称略)

 

 【いっしき・しゅんさく】 1937年、松山市生まれ。松山商から明大に進学し、61年に上浮穴野球部監督に就任。松山商コーチなどを歴任し63年に監督に就いた。一度退いた後、66年に復帰すると、69年夏の甲子園大会で延長十八回引き分け再試合を制して優勝。その後は帝京第五、新田でも指揮を執り、90年の選抜大会では新田を初出場準優勝に導いた。2013年、75歳で死去。

 

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