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聖地を沸かせた名将 えひめ高校野球 全国春90回・夏100回大会

<5>矢野祐弘 西条1959年夏優勝 優しさ兼ね備えた「鬼」

2018年6月2日(土)(愛媛新聞)

1959年夏の甲子園大会を制し、ナインに胴上げされる矢野祐弘

1959年夏の甲子園大会を制し、ナインに胴上げされる矢野祐弘

 戦前から続いた松山商の一強時代に終止符を打った青年監督。それが1959年に28歳の若さで西条を日本一に導いた矢野祐弘(西条市出身)だ。

 「猛練習こそ学生野球の本道」と、頑固に精神野球を貫き、春夏合わせて5度の甲子園出場で西条の黄金時代を築いた。「こんな人間がいるのか」「まさに鬼」と選手らが恐れおののくスパルタ練習が、松山商だけでなく全国の強豪校も打ち破った。

 55年に西条に着任した矢野は「打倒、松山商」に燃えていた。守備練習では松山商の千本ノックを上回るほど激しいノックを課し、雨の日には隣の新居浜市までうさぎ跳びや馬跳びをさせたという。逃げ出す選手が続出したが「すぐに連れ戻された」とOBらは懐かしむ。

 矢野が精神論を唱えるようになったのには、きっかけがあった。赴任前の51年、西条北(現西条)は後にプロ野球巨人のエースとなる藤田元司を擁し、充実の戦力で夏の県予選を制した。ところが北四国大会で高松商に3―8で敗れ、甲子園を眼前で逃した。「あのチームで負けるのは技術以外に何か要因がある。これは精神力の弱さだ」。矢野はそう確信した。

 練習は、常に試合と同じ緊張感が漂った。スパルタではあったが「情熱を持ってぶつかってくれた。監督の執念が選手に乗り移ったんですよ」と59年夏の優勝メンバー長井栄二(75)=松山市三町1丁目=は振り返る。

 練習で見せる「鬼」の顔とは対照的に、選手から「おやじ」と呼ばれた矢野。「優しい人でした」と語るのは甲子園優勝投手となった金子哲夫(76)=今治市北日吉町3丁目=だ。

 暑い夜だった。甲子園の宿舎で同部屋だった金子と捕手の藤岡修三はなかなか寝付けず、布団を蹴飛ばした。どのくらいたっただろう。金子は人の気配に気付いた。「おやじが部屋に入ってきて、そっと布団を掛けてくれたんです」。矢野は県予選でも同じように選手の部屋を見回り、布団を掛け直していたという。

 矢野は西条で指揮を執った後、65年に亜細亜大学監督に就任。後に総監督となり、リーグ優勝7回、大学選手権優勝2回と亜大を東都の名門に育て上げた。地元からは惜しむ声も多かったが、松山球場でキャンプを行い、地元社会人チームとの対戦で教え子と再会する場面もあった。矢野の死去後も亜大が西条市でキャンプを続けたことからも、矢野が偉大な功績を残し、人としても慕われていたことがうかがえる。

 今の時代にはそぐわないであろう精神野球。それでも教え子らの心には、今でも「おやじ」の姿が刻み込まれている。(敬称略)

 

 【やの・すけひろ】 1931年、西条市生まれ。立教大中退後、55年に母校の西条監督に就任。56年選抜大会で初の甲子園に導き、59年夏には延長十五回の末、宇都宮工(栃木)を破って初の全国優勝。10年間で春夏5度の甲子園出場を果たした。65年から亜細亜大監督を務め、80年に総監督に就任。ドラフト史上最多8球団の1位指名を受けた小池秀郎投手らを育てた。93年、62歳で死去。

 

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