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聖地を沸かせた名将 えひめ高校野球 全国春90回・夏100回大会

<4>中村国雄 松山東1950年夏優勝 選手を信頼「王国」復興

2018年6月1日(金)(愛媛新聞)

1950年夏の全国制覇当時の中村国雄

1950年夏の全国制覇当時の中村国雄

 1950年、深紅の大旗が戦後初めて瀬戸内海を渡った。連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にあり、心身ともに疲弊していた県民は歓喜に沸いた。快進撃の末に全国制覇を遂げたのは、松山商と松山東の統合による急造チーム。ライバルだった2校をまとめ上げたのが監督の中村国雄(松前町出身)だった。

 「強気一辺倒ではなく、緻密な野球もできた」。甲子園出場メンバーだった大川彰(85)=松山市桑原3丁目=は、中村の戦いぶりを回顧する。

 甲子園での初戦、大会屈指のピッチャーを擁する優勝候補の長良(岐阜)に対し、得点チャンスでは4番打者にスクイズを指示した。別の試合では相手より優位とみれば、畳みかけるような打撃を仕掛けた。「松山商の戦術は多彩だと言われていたが、中村監督の采配にはメリハリがあった」

 大柄で実直、素朴な雰囲気。あれこれ口出しはせず、泰然として構えるタイプだった。「選手を信頼して任せてくれる度量の大きい人」。当時センターで1番打者の吉井達夫(85)=川崎市=はこう振り返る。盗塁のタイミングにしてもそう。「サインは出さないから、ここだというときに思い切ってやれ」と一任。選手は皆、伸び伸びとプレーに打ち込むことができた。

 吉井には忘れられない思い出がある。甲子園での長良との一戦。2―3で迎えた七回、それまで打撃が振るわなかった吉井が左前安打で勝ち越し点を挙げた。試合後の帰り道、そっと近づいてきた中村がぼそりと一言。「ちゃんと、やるときにはやるんだな」。大事な場面で決めると、必ずそれとなく褒めてくれる。決して雄弁ではなかったが、生徒へのまなざしは愛と優しさに満ちていた。

 先を見据え、じっくりと選手を育てる指導法で52年には、松山東商業科から独立した松山商を率いて夏の甲子園に出場。2年生の豪腕・空谷泰を抜てきし、8強入りした。翌年体調を崩し、後輩だったコーチの亀井巌(松前町出身)に監督を託したチームは3年ぶりの日本一を達成。戦後くすぶっていた「野球王国愛媛」復興の立役者となったことは間違いない。(敬称略)

 

【なかむら・くにお】1925年、松山商の左翼手として第2回全国選抜中等学校野球大会で優勝。卒業後は明大に進み、終戦までノンプロの京城電気(韓国)で監督を務めた。戦後は社会人野球の東洋レーヨン(松前町)監督を経て、松山商教員に就任。松山東との統合の際は「和の力」でチームを一つにまとめた。48年から53年5月まで監督として選手育成に努めた。62年、57歳で死去。

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