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聖地を沸かせた名将 えひめ高校野球 全国春90回・夏100回大会

<2>鞍懸 琢磨 松山商1932年春優勝 ノックの雨 名選手育成

2018年5月30日(水)(愛媛新聞)

1932年の選抜大会で優勝した松山商ナイン。2列目右から2人目が鞍懸琢磨(鞍懸寅夫さん提供)

1932年の選抜大会で優勝した松山商ナイン。2列目右から2人目が鞍懸琢磨(鞍懸寅夫さん提供)

 「そのシートノックの絶妙な球さばきは、他に比類のないものでした」

 1932年の全国選抜中等学校野球大会で、明石中(兵庫)との接戦を制して2度目の頂点に立った松山商。藤本定義(元巨人、阪神監督)、森茂雄(元阪神監督)、景浦将(元阪神)ら、プロ野球黎明(れいめい)期の名監督、名選手を鍛え上げたのは、10年以上にわたり野球部の指導に当たった鞍懸琢磨だった。

 岡山県出身の鞍懸は22年に松山商に赴任し、近藤兵太郎が監督を務める野球部の部長に就任した。自著「ノックバットは語る」によると、当初は教職の誘いを断ったが「野球の部長をやってみないかと誘われ(中略)野球は中学、六高、京大と寧(むし)ろ飯より好きであったので」と翻意したという。

 鉄腕と呼ばれた藤本を擁する松山商は、同年夏の全国中等学校優勝大会に出場した。しかし、神戸商との準決勝で、送球が相手走者に当たって決勝点を許す不運な形で敗退。鞍懸はこの敗戦をきっかけに「よし勝つまでやってやる」と野球に一層のめり込んだ。

 選手に厳しい守備練習を課した鞍懸は、ノックの名手として知られた。当時の部員は「怒鳴りながら激しいノックの雨を降らせ、来る日も来る日もわたしらは泥んこになり、泣きながらボールを追った」と回想している。一方でグラウンドを離れると、選手と花札やトランプに興じる気さくな一面を見せ、「クラさん」の愛称で親しまれた。

 選抜大会で初優勝した25年に近藤が監督を退くと、鞍懸は部長兼監督になった。厳しい指導を続けながら、藤本や森といった卒業生の力も借りて柔軟にチーム強化に努めた。精神野球を強調した一方、雨で練習ができない日はルール研究をさせるなど、理論的なアプローチも試みた。

 「家庭を顧みず、松山商の野球に打ち込んでいた」と次男の寅夫さん(90)=砥部町北川毛=は話す。「県外へ栄転の話もあったが、松山商にこだわり、貫いた。本人としては満足だったのでは」とおもんぱかった。鞍懸自身も「坊っちゃんのような気持ちで、一年間先生をやる気で野球部長になったのが(中略)今日ではすっかり松山人になってしまった」と回想している。

 35年に松山商が悲願の夏初制覇を果たした時、八幡浜商(現八幡浜高)の校長だった鞍懸の姿が甲子園にあった。優勝の瞬間、台湾・嘉義農林の監督を務めていた近藤と抱き合い涙を流したという。松山商野球部を二人三脚で鍛え上げた2人にとって、至福の瞬間だった。

 鞍懸は松山中(現松山東高)校長を退職後、県野球連盟会長を務め、松山球場建設にも尽力した。クラさんは、まさしく愛媛野球の育ての親だった。

 

 くらかけ・たくま 1893年生まれ、岡山県出身。京都大卒業後、1922年に松山商へ赴任し野球部長となる。近藤兵太郎とともに猛練習で選手を鍛え上げ、松山商野球の基礎を作り上げた。35年から八幡浜商、松山商、松山中の各校長を歴任。退職後は県民館長などを務めた。64年に70歳で死去。

 

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