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聖地を沸かせた名将 えひめ高校野球 全国春90回・夏100回大会

<1>近藤 兵太郎 松山商1925年春優勝 守備徹底の教え 伝統に

2018年5月29日(火)(愛媛新聞)

教え子を見守る近藤兵太郎監督=1953年ごろ、松山市(林司朗さん撮影)

教え子を見守る近藤兵太郎監督=1953年ごろ、松山市(林司朗さん撮影)

 

教え子を見守る近藤兵太郎監督=1953年ごろ、松山市(林司朗さん撮影)

教え子を見守る近藤兵太郎監督=1953年ごろ、松山市(林司朗さん撮影)

 

 「野球の鬼」「雷おやじ」。愛媛と台湾で高校野球の礎を築いた近藤兵太郎を、教え子たちはそう表現する。松山商出身の近藤は1918年に母校の初代監督に就任。ライバル松山中(現・松山東高)打倒を達成すると、19年には四国大会を制し、25年には春の全国選抜中等学校野球大会で愛媛勢初の全国制覇に導いた。

 手のひらが腫れるほど投げ込むキャッチボールや、休む間を与えない厳しいノックなどのスパルタ指導。戦後、新田で指導を受けた「近藤兵太郎をたたえる会」会長の林司朗(85)に近藤は狙いを語った。「甲子園の大観衆の中、満塁でノースリーになった時に投手が冷静にストライクを投げられるか、打たれても野手が処理できるか。浮足立つのを抑えるために練習している」

 勉強熱心な近藤は米国からルールブックを取り寄せ、自身の野球にも取り込んだという。「九回裏までに1点でもリードしていればいい。野球は守りのゲーム。守って守って守り抜く」。近藤の教えは松商野球の伝統となり、台湾野球のベースにもなった。

 19年に日本の統治下の台湾に渡り、教員を勤めながら夏休みに帰省して25年まで母校の指導を続けた。28年、発足間もない嘉義農林学校(現・嘉義大学)野球部コーチに就任。漢民族、高砂族、日本人の合同チームを率い、わずか4年目で台湾大会を制覇。勢いそのままに初めて乗り込んだ甲子園でも快進撃を続け、準優勝を果たした。

 当時の選手の一人は後年、林に送った手紙で「風俗習慣の異なる三民族が一体になり甲子園で準優勝を果たしたのは、ひとえに先生の巧みな統御によるものだと信じています」と心境をつづった。嘉義農林はその後、台湾代表として計5度、甲子園の土を踏んだ。2014年には、嘉義農林にスポットを当てた映画「KANO」が台湾で大ヒット。近藤の功績に再び光が当たった。

 「野球の虫になれ」と、常に厳しい練習を課していた近藤だが、林が「教え子と酒を飲むことが楽しみだった」と語る通り、多くの選手に慕われた監督だった。厳しさの裏に、選手の将来を見据えていた。林は「近藤監督は『社会に出て通用する人をつくる』とよく言っていた。野球という道具を使って人を育てていた」と恩師を懐かしそうに振り返った。

 

 こんどう・ひょうたろう 1888年、松山市生まれ。1918年に松山商の監督に就任し、25年の第2回全国選抜中等学校野球大会で初優勝。台湾でも嘉義農林を率い、31年の第17回全国中等学校優勝大会で準優勝に導く。戦後の46年に日本へ帰国、50年から新田高で監督を務め、その後愛媛大でも指導。「愛媛野球の育ての親」ともいわれる。

 

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