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球春の軌跡 県勢のセンバツ史

<2>東予勢 次々初出場 空白期越え 市民に夢

2018年3月14日(水)(愛媛新聞)

初出場した第39回選抜高校野球大会2回戦で、優勝候補の平安を破り感極まる新居浜商ナイン=1967年4月2日、甲子園

初出場した第39回選抜高校野球大会2回戦で、優勝候補の平安を破り感極まる新居浜商ナイン=1967年4月2日、甲子園

 「日本中が高校野球に夢中だった。地元校の甲子園出場が、何よりもまちを元気づけた」。1974年春の選抜出場と75年夏の準優勝を経験した新居浜商のエース村上博昭(60)=新居浜市宇高町2丁目=は、当時の「野球熱」を懐かしそうに振り返った。

 そんな時代に至るまで、愛媛のセンバツ史には19年にわたる空白期があった。太平洋戦争で42年から春夏大会が中断。選抜大会は5年後に復活したが、高知勢や徳島勢に抑えられ出場は遠かった。

 50年代には戦前から隆盛を極めた松山商に不運が続く。52年夏の県予選準決勝の今治西戦で、走塁妨害を巡って興奮した松山商側の応援団がスタンドからラムネ瓶を投げ、半年間の県外試合禁止処分を受けた。夏に全国優勝を果たした53年には、松山商の投手に対するプロ球団のスカウトが激化、異例の入札で獲得合戦が繰り広げられた。この一連の騒動が「品位に欠ける」と問題視され、55年も選抜漏れとなるなど春の吉報はなかなか届かなかった。

 愛媛の球春を再び彩ったのが、56年の西条を皮切りに今治西や新居浜商など続々と初出場した東予勢だ。当時は経済の飛躍的な成長と同時に、人々に希望を与える高校野球の熱が高まり、市やOB、後援会といった地域が野球部の支援に力を入れた時代でもあった。

 象徴的なのは「松山商に追いつけ追い越せ」の猛特訓で67年春、創部7年にして初出場し、ベスト8へ駒を進めた新居浜商。観客から「あらいはま頑張れ」と声がかかるほど無名の学校が、初陣の札幌光星(北海道)に完勝し、2回戦は優勝候補の平安(京都)を破った。報徳学園(兵庫)との準々決勝は序盤にリードしたが、延長十一回に惜敗。うなだれるナインに「にいはま、よく頑張った」とねぎらいの言葉が飛んだ。

 66年に監督に就任した鴨田勝雄の熱血指導で、新居浜商は79年までに春夏通算6度の甲子園出場を果たす。当時、市立高校だった同校を市もバックアップし、広大なグラウンドや当時は珍しいナイター設備、雨天練習場を整備。校長は野球部のために官舎を明け渡して合宿所にし、商工会議所は資金集めを約束した。

 70年代は別子銅山の閉山や石油危機による重化学工業の衰退が新居浜市に暗い影を落としていたころ。初出場時のエース合田養(68)=広島市=は「甲子園出場は市民にとって本当に明るいニュースだった。監督と後に続いてくれた後輩に感謝したい」と語った。

 78年は南宇和、79年には川之江が初の選抜切符を獲得。県内の名門校に圧倒されてきた地域が意地を見せ、愛媛の高校野球はまた新たなステージへと進み始めた。

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