ログイン
Myページ
Myページ

愛媛新聞ONLINE

2018
1119日()

ログイン
Myページ
愛顔会員Myページ
MENU

国体 愛媛勢の歩み

<3>1970年代 ボート不振

2016年12月21日(水)(愛媛新聞)

1972年の鹿児島国体で初優勝し、祝福の胴上げをされる丸善石油・武内和男監督

1972年の鹿児島国体で初優勝し、祝福の胴上げをされる丸善石油・武内和男監督

 

1972年の鹿児島国体で初優勝し、祝福の胴上げをされる丸善石油・武内和男監督

1972年の鹿児島国体で初優勝し、祝福の胴上げをされる丸善石油・武内和男監督

 

 1970年代は「お家芸」と呼ばれた競技の得点が伸び悩み、天皇杯(男女総合)順位は71年の20位をピークに徐々に下降していった。74年に25位と一時的に盛り返したが、その後は30位台で推移。皇后杯順位も74年の17位から76年は40位まで落ち込んだ。79年には初戦を突破した種別が4割にとどまり、天皇杯38位、皇后杯40位に終わった。

 50~60年代に愛媛勢をけん引したボートが不振に陥った。隆盛を誇っていたフィックス種目が69年に廃止され、大きな得点源を失った。71年に高校男子ナックルフォアで宇和島東が優勝したが、後にナックルも種目から外された。代わって登場したシェル艇が高価で、県内での普及が進まず、他県の後塵(こうじん)を拝するようになった。

 ソフトボール一般女子も、タオルや繊維不況から64年の国体後に広洋タオルが解散、ほどなく東レ愛媛も活動停止した。70年代は愛媛選抜などが国体に臨んだが黄金期の面影は薄れた。

 下降線をたどった時期だが、県勢が躍動した場面はいくつかあった。例えば一般男子ソフトボール。丸善石油は、72年3月に世界選手権を経験。国体は予選でそれまで大きな壁となっていた高知県勢を倒して初出場を果たした。

 当時の選手、山岡一成さん(70)は「チーム全体が精いっぱい試合に集中して臨んでいた」と振り返った。決勝では住友金属和歌山(和歌山)と対戦し、延長十三回に1死二、三塁からスクイズを決め、サヨナラで優勝を飾った。大会を終え、愛媛に戻った山岡さんは「港に出迎えに来てくれたたくさんの人を見て優勝を実感した」と語った。

 75年は帝人松山が決勝まで駒を進めた。最後の一戦は雨で試合が行えず、地元三重のチームと優勝を分け合うことになった。

 弓道も存在感を見せた。71年に一般女子近的が初優勝を達成し女子総合4位。翌年も高校女子が活躍するなど70年代前半は安定した力を発揮した。

 個人種目でも気を吐く選手は少なくなかった。中でも重量挙げは73~76年にかけて好成績を挙げた。73年に高校ミドル級で新居浜工高の小野正選手が優勝し、翌年も準優勝2人を含む6人が入賞。同校の真鍋和人選手は、75年から2年連続で少年フライ級を制した。真鍋選手は84年のロサンゼルス五輪男子重量挙げ52キロ級で銅メダルを獲得する快挙を果たした。

 ほかにも陸上の教員女子砲丸投げで今村絹代選手(済美高教員)が70、71年ともに大会新記録で優勝。ボートも74、75年に少年男子シングルスカルで井手勝敏選手(今治西高)が連覇するなど明るいニュースをもたらした。

 

    おすすめ記事

    愛媛の情報なら、愛媛新聞のアプリ。

    欲しい情報をいつでもあなたにお届け!プッシュ通知機能も充実。