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64年ぶりの「祭典」・愛媛国体誘致の軌跡

(上)2巡目 四国最後に

2016年3月29日(火)(愛媛新聞)

日本体育協会の張富士夫会長(右)から国体開催決定書を受ける中村時広知事=2014年7月23日、東京都内(撮影・松本尚也)

日本体育協会の張富士夫会長(右)から国体開催決定書を受ける中村時広知事=2014年7月23日、東京都内(撮影・松本尚也)

 薄曇りながら気温は30度を超えていた。2014年7月23日、東京都内。愛媛県知事中村時広に、日本体育協会長の張富士夫から17年の第72回国体の決定書が手渡された。愛媛県にとって64年ぶり、単独開催としては初の国体が正式に決まった瞬間だ。ただ、同席した県体育協会長の大亀孝裕(84)に特別の感慨はない。むしろ目標の天皇杯獲得に向け気を引き締めた。「もう一歩、強化に弾みをつけないといけないな」

 

 さかのぼること61年。愛媛県で初めて国体が開かれたのは戦後間もない1953年だ。ただ、この第8回大会は、松山市が開閉会式の会場となり、県内で全体の半数以上の競技を行ったものの、四国4県での共同開催だった。年月の経過とともに、県内スポーツ界などから単独での2度目の実施を求める声が出てくるのは自然な流れだった。

 70年代から誘致の動きは断続的にあった。故白石春樹が知事選公約に掲げていたこともあり、71年に県議会が国体誘致を決議。80年には「沈滞気味の本県スポーツを立て直そう」と県体協が90年国体に名乗りを上げたが、いずれも機運は盛り上がらなかった。

 80年代に入り、香川と徳島の共催による93年の東四国国体が決まった際、次に四国で開く2002年は愛媛と高知による西四国国体が予定された。しかし、93年に愛媛側が単独開催を進める方針を表明、西四国での実施を事実上辞退する。

 当時、県体協会長だった故奥島団四郎は本紙の取材にこう答えている。「共同開催では競技が半数になり、開会式がなければメリットはない。国体の経済効果は大きいが、施設、交通アクセス、地域活性化なども半減すると判断した」

 東四国国体では開会式の会場をめぐって香川、徳島両県がもめ、禍根が残った経緯も伝わっていた。結果的に2巡目国体の実施は四国で最後となったが、当時、県体協副会長だった大亀は「共同開催では東四国の二の舞いになりはしなかったか。結果としてはよかった」と判断を支持する。

 

 国体誘致に見通しが立たない80~90年代、愛媛の天皇杯順位は30~40位台と低迷。95年の福島国体ではついに46位まで落ち込んだ。県体協で競技力向上委員を務めた伊賀上文男(85)は「もう後がない惨めな状態。なぜここまで落ちるのか。対策が必要だ、という空気になった」。運動施設の老朽化も顕著で、県内スポーツ関係者には危機感が高まっていた。

 こうした中で転機となったのが99年、「スポーツ立県」を掲げた加戸守行の知事就任だった。(敬称略)

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