愛媛新聞オンライン HOME>愛媛FC  

 羽ばたけ、Jの舞台で―。愛媛FCの来季Jリーグ入りが5日、Jリーグの臨時理事会で正式に決まった。J参入を目標に掲げ、アマチュアの最高峰・日本フットボールリーグ(JFL)に参戦して5年。今季、そのJFLを初制覇して、J2昇格に弾みをつけた。
 愛媛FCのJFL入り後、本紙はその戦いぶりを密着取材してきた。Jリーグに上りつめるまでのあの試合、あの場面を写真と担当した記者の思いを添えて振り返った。
 「次はJの舞台!俺たち愛媛のスタートライン!」の横断幕を前に勝利を喜ぶサポーター=2005年11月27日、静岡・ホンダ都田サッカー場
チームの危機を何度も救った愛媛FCの守護神・羽田=2005年11月13日、米子市営東山陸上競技場 ディフェンダーを振り切り、力強くシュートする友近=2005年5月29日、県総合運動公園球技場

1970年 松山サッカークラブとして創立。県リーグに参加
 
  87年 四国リーグ昇格
 
  94年 株式会社愛媛フットボールクラブ設立
 
  95年 チーム名称を愛媛フットボールクラブへ変更。JFL加盟へ向けて本格的な強化を始める
 
  98年 四国リーグ初優勝
 
  99年 四国リーグ連覇
 
2000年 四国リーグ3連覇
 
  01年 社会人連盟の推薦を受けJFL加盟。会社から独立し、名称を愛媛FCに変更。シーズン戦績は9勝6分け15敗、16チーム中12位。県選抜として国体に出場し準優勝。天皇杯2回戦進出
 
  02年 JFL2年目のシーズン。戦績は8勝4分け5敗、18チーム中6位。県選抜として国体に出場し3位。天皇杯2回戦進出
 
  03年 JFL3年目のシーズン。戦績は17勝5分け8敗、16チーム中3位。県選抜として国体に出場し初戦敗退。天皇杯2回戦進出
 
  04年 JFL4年目のシーズン。戦績は14勝7分け9敗、16チーム中5位。県選抜として国体に出場し3位。天皇杯3回戦進出
 
  05年 JFL5年目のシーズン。21勝3分け6敗で初優勝(16チーム参加)。県選抜として国体に出場し3位。天皇杯3回戦進出
 
県リーグ時代の松山サッカークラブ
JFL加盟を願って愛媛FCジュニアユースメンバーが署名活動=1999年12月9日、松山市大街道
シュートを決める清水=2002年10月13日、県総合運動公園陸上競技場
ミニゲームで加藤からボールを奪おうとする子ども=2004年7月19日、八幡浜市保内町喜須来小
アウエーゲームでえひめFCを応援するサポーター=2005年11月13日、米子市営東山陸上競技場
J2入り確実―。ホンダFC戦で勝利したイレブンに駆け寄る愛媛からのサポーター=2005年11月27日、静岡・ホンダ都田サッカー場
 
相手FWと競り合う星野=2005年12月4日、県総合運動公園陸上競技場
【Jリーグ】 社団法人日本プロサッカーリーグの略称。財団法人日本サッカー協会の傘下団体で1993年、鹿島アントラーズ(茨城)など10チームで発足した。脱企業スポーツ化を進め、市民、行政、企業の三位一体によるホームタウン制で、地域に密着したクラブ組織を確立した。
  99年にアルビレックス新潟(新潟)などを加え、2部制に移行。今季は徳島ヴォルティス(徳島)とザスパ草津(群馬)が、日本フットボールリーグ(JFL)からJリーグ2部(J2)に加盟し、1部、2部合わせて30チームと発足当時の3倍にまで拡大した。愛媛FCが来季加入することで、J2は13チームで争うことになる。

【“無休無給”で悪戦苦闘 月岡岳(01~02年担当記者)】

 栄えあるJ2昇格を実現した今、JFL参入当時を思えば感傷的になる。選手は将来や生活への不安を抱え、劣悪な環境の中で試合と練習に明け暮れていた。
  今は遠征に空路を利用するケースが多いようだが、当時は東京以南の試合はすべてバス移動。静岡県への遠征に同乗したが、片道九時間半。コンディション調整どころではなかった。
  週二回、芝のない荒れたグラウンドでの夜間練習。終われば全員でボールを探し、トンボかけ。照明代節約のため、建物の明かりを頼りに自主トレーニング。バイト暮らしも多かった。
  “無休無給”で漠然とした「Jリーグ」を夢見て、サッカーだけのために生活していたように思う。
  JFL入りから五年。愛媛FCには実に八十人余りが籍を置いた。その多くが年齢や実力、生活などの理由で無念さを胸にチームを去った。
  それだけに、JFL入り当初からいるメンバーに目がいく。「年も年だし、今年で終わりにしようと…」。数年前にそうつぶやいた選手が先日のホンダ戦後、初めてうれし涙を流した。そんな彼らをJの舞台で見られたらうれしい。
(宇摩支社編集部)

【プロへの過渡期だった 和泉太(03~04年担当記者)】

 幼いころから、阪神タイガースが大好きだった。負けても負けても、嫌いになれなかった。高校三年のとき、将来の希望職種を度外視して関西への進学を真剣に考えた。それほどタイガースのある街にあこがれた。
  担当したJFL三、四年目はJリーグに届きそうで届かない、そんな時期だった。夢から現実、アマチュアからプロへの過渡期だったように思う。
  取材していて、選手の不安やいらだちが伝わることも多かった。昨年、勝負どころの夏場に勝てなかったときのこと。練習中、選手同士が接触プレーから口論となり、とっくみ合いになった。そこで止めに入った指導陣に「お前たちのためにやっているんじゃないんだ」と大声で歯向かう姿を見た。
  一昨年の加盟申請見送りで、ある選手は涙ながらにフロントに経緯をただした。大人と大人のむき出しの衝突。彼らの思いが一歩ずつでも愛媛FCをJリーグに近づけ、結実させたことをうれしく思う。
  愛媛にプロスポーツが生まれた。チームと県民に相思相愛の関係が築かれれば、愛媛もタイガースのいる関西のようになる可能性を秘める。時間はかかるかもしれない。しかし十年、二十年後が楽しみでならない。
(社会部)

【選手の緊張どれほどか 秀野太俊(05年担当記者)】

 「いつもは熱い友近の意外にクールな発言」。愛媛FC担当になって初めて書いた記事の一節。これについて友近選手が「あの発言の真意は―」と自身のブログに書いていた。読みながら背中がぞわぞわした。客観視するのが仕事の人間が、鏡の前に立たされて戸惑ったというのが本音だ。
  考えさせられた。高校生らのアマチュアスポーツは年が変わればチームが変わり、読者の興味も断続的な場合が多い。それが地方のスポーツの現実でもあった。
  しかし、愛媛FCの場合、友近選手のようにチームと深く長くかかわってきた選手がおり、それを見続けているファンやサポーターがいる。プロスポーツの特性がそこにはあった。見ること、見られることへの高い意識と言ってもいい。それを記事化するのだから、いわんや、である。
  九月のチェアマン発言以後、注目と関心は一段と高まり、広がった。鏡の前に立つこと、立っていることを意識した。その度に、相変わらずぞわぞわしている。
  その緊張感たるや。何千もの観衆から生の視線を浴び、新聞やテレビで何万という人たちの前にさらされる選手たちは、どうなのだろうか。この緊張感、Jではさらに増すばかりだろう。
(運動部)

HOME

Copyright(C) The Ehime Shimbun Co.,Ltd.